河内源氏発祥の地

壺 井 八 幡 宮

 

  ≪河内源氏3代≫

 

鎌倉幕府の創始者源 頼朝が、八幡太郎源義家公の4代の孫であり、室町将軍家・足利も義家公の流れであり、さらに徳川将軍家も義家公末孫を称したことはよく知られています。


源 頼信

寛仁4年(1020)壺井に館を構えた頼信公は、関東で起こった平忠常の乱を平定することにより、武将としての名を高めました。後、河内守に任ぜられた頼信公は、誉田山稜(応神天皇陵)に参拝、告文を奉っています。この中で、自分の祖先を応神天皇とし、先の忠常の乱において、一平兵も動かさずして平定することができたのも八幡大菩薩のお陰と、感謝の言葉を述べられています。
この平忠常の乱の平定には、はじめ相模守であった平直方が追討使を命ぜられましたが、成功せず、続いて頼信公に勅命が下ったのです。この戦に従軍した頼信公の嫡子・頼義公の姿を見た直方は、自分の娘を嫁がせ、生まれたのが義家公です。直方は娘を嫁がせるにあたり相模国鎌倉を持参金とします。以後、鎌倉は、河内源氏相伝の地となったのです。

源 頼義

 平忠常の乱から20年、奥州において「前九年の役」、「奥州合戦」あるいは「12年合戦」などと呼ばれる戦乱が起こりました。安倍頼良・貞任・宗任父子の反乱です。この前九年の役を鎮守府将軍・陸奥守として平定したのが頼義公です。
頼義公がこの前九年の役を平定することにより、河内源氏の勢力は奥州にまで伸び、関東武士たちに対する支配力は、一層強固なものとなったのです。この頼義公の嫡子が「天下第一武勇之士」とか「武士の長者」(中右記)と評された八幡太郎源義家公です。

源 義家

義家公が、武士の棟梁としての地位を確固たるものにしたのは、後三年の役であります。後三年の役は、前九年の役の勝者清原氏一族の内部争いに端を発したものです。義家公が鎮守府将軍・陸奥守に任じられた兵を動かす結果となりました。 
 しかし、この戦は、清原氏が国家権力に反抗して起こったものではなく、清原氏一族内での内訌であったため、朝廷は、追討の官符を与えず、私的戦闘と見なされたのです。ここには、河内源氏の政界進出を抑えようとする白河天皇を中心とする朝廷の姿が見られます。       
こうした点で、後三年の役は、政治的には義家公の大きな失敗であったと言わざるを得ませんが、義家公と関東武士団との関係においては、一段と大きな発展が見られ、武士の棟梁としての地位を得たのです。また、名将として神格化され、その庇護のもと献身的な奉公をする武士団との間の私的主従関係が強化されたのです。  
その結果、義家公の勇猛ぶり・知将ぶりを賞賛し、思いやる恩情深い武将であることを強調した説話が数多く生まれました。例えば、『奥州後三年記』には、義家公が軍士を労わった話、剛臆の座を定めた話、斜雁の列の乱れを見て伏兵を知る話、金沢柵の陥落を予知する話などがあり、また、白河上皇が「物の怪」に悩まされた折、黒塗りの弓矢一張をすすめ、それを上皇が枕上に立てられたところその後は「物の怪」に襲われなかった話、堀河上皇がご病気の折、義家公が甲冑をつけ弓箭を帯して参内し、弓の弦を三度鳴らしたら、天皇のご病気は平癒されたという話があり、これらは義家公の超人的霊力を示すものであります。
また、義家公が武勇にすぐれただけでなく、学問にも通じていたことを示すものとしては、『古今著聞集』に大江匡房に兵法を学んだ話、衣川にて安倍貞任との連歌の話などがあり、『千載和歌集』には次の和歌が載せられています。

                             

吹く風を なこその関と思へども 道も狭に散る 山桜かな


 
 義家公の歌碑

戦よ、もう起こってくれるな。桜の花が散るように、人の命も散るではないか

清和源氏略系図(系図をクリックするとPDFファイルが開きます)