河内源氏発祥の地

壺 井 八 幡 宮

 


≪壺井八幡宮≫

御 祭 神:誉田別尊・仲哀天皇・神功皇后

寛仁4年(1020)多田満仲公の4男・源頼信公は河内守に任ぜられ、この地の香呂峰に館を営み同年9月10日より居住、河内源氏の祖となる。                         
翌年、長子頼義公誕生、河内源氏の第2代となる。                         
長暦2年(1038)7月14日、頼義公の長子八幡太郎義家公当地に誕生、続いて次男加茂次郎義綱公、三男新羅三郎義光公等が誕生することにより、河内源氏の嫡流は発祥の地となった。
第70代後冷泉天皇の永承6年(1051)、奥州に安倍頼時とその子貞任・宗任の乱がおこり頼義公に賊を平定するようにとの勅命が下り、鎮守府将軍陸奥守に任ぜられた。         
出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願し、12年3ヶ月の苦戦の末、康平5年(1062)賊を平定した。凱旋後、誓願の験ありとして、康平7年(1064)5月15日、社殿を建立し、石清水八幡宮の神霊を遷し祭ったのが、壺井八幡宮である。この時、香呂峰の地名を壺井と改めた。  


≪壺井権現社≫

御 祭 神:源 頼信公・源 頼義公・源 義家公

天仁2年(1109)正月3日の夜、義家公の5男左兵衛尉義時公が、父祖三将軍の夢のお告げ
に「吾等三者の霊を祭祀すべし。然らば、王城を鎮護し、永く源家の守護神たたらん。」とありしにより、八幡宮西方に地を選んで社殿を造営、同年8月18日竣工、三将軍の荒御霊を奉斎し、壺井宮と称し、河内源氏の崇廟とした。                                 
即ち、世にいう源氏三社(京都・六孫王社、摂津・多田社、河内・壺井宮)の一つである。                                    


≪壺井の井戸≫

前九年の役の天喜5年(1057)6月7日、頼義公・義家公父子が賊と戦う時大干魃にて飲料水乏しく、まさに敗北せんとするときに、頼義公は下馬脱甲合掌、干天に祈って「諸軍渇に堪えかね、将に敗戦とす。伏して願わくば軍中に、水を得さしめ給え、帰命頂礼八幡大菩薩南無通法救世大士、擁護の手垂れ給え。」と申されしばらく礼拝された後、自ら弓矢をもって岸壁を穿ち給えば、そこより清水湧き出し、熱渇はたちどころに除かれた。これにより、諸軍は大いに勢いを得、遂に賊を誅伏することができた。
因って凱旋の際、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘り井底に壺を埋めて壺井水と称した。以後、香呂峰の地名は、壺井と改められた。湧水は今の北上川となったといわれている。壺井水の井戸は、現在も完全に保存されており、最近まで飲料水として利用されていた。